死から生へ2

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日々のあれこれを振り返ってみると、いつも気持ちよくことを運んでいるわけではない。あるときは前向きで、何でも挑戦しようという気持ちになって意欲的に動いているが、あるときは何をするにも気持ちが乗らず、またにしようと先送りにしてしまう。そればかりではない。やろうとしていたことの意味さえ否定してしまう。そんなことをして何になるんだ、と。

疲れてくると否定的になることが多いから、体や心の疲れ具合が、やろうとするのか逃げようとするのか、その決定に大きく影響する。であれば、いつも元気ハツラツで頑張ればいいかというとそうでもない。何かが引き金になって落ち込むと、どっと疲れると言うこともある。元気な体が心を元気にする一方で、疲れた心が元気な体を萎えさせてしまう。

日々のいとなみは、前向きな面と後向きな面を持っている。前向きな面は、よりよく生きようとする生の生き方の表現である。これに対し、後向きな面は、生の生き方から遠ざかる生き方、死の生き方の表現である。日常生活では、生の生き方か死の生き方かどちらかが強く現れ、どちらかが抑制される。

いのちのいとなみの基本は生き続けることであり、原則、生の生き方を選ぶしくみになっている。命は生き続けることを目的にして設計されたシステムであるから、死につながるいとなみは排除する。しかし、ある特殊な状況によっては、知らず知らずのうちに死に向かう生き方を選んでいることがある。一生懸命生きていることが、死の生き方になっていることもある。

人間は進化しすぎて、社会的な側面を重視しすぎるようになった。いのちは、生物学的いとなみによって全ての活動を支えており、それを最も重要視するが、人類は群れを作り、社会的なルールに従って生きる生き方を選んだために、それが最優先されるようになった。そのような生き方が、時にはいのちの基本を否定するような悲劇にもつながっている。人類の進化が生んだ闇の部分である。

闇を避けて明るいところで生きるために、社会的な状況を埒外において、まずは生き物として快適に生きることを考えてみる。とりあえず美味しいものを食べる。うたた寝をする。軽く散歩をする。風呂に入って、早めに寝る。周りのことは考えず、しなければならないことは全て放り出して、まずは、美味しいものを食べることから始める。人間関係や周りのことはちょっと埒外において、自分の世界に浸る。周りをシャットアウトして、一匹のヒトという動物になりきる。そこから出発することで、命の仕組みを感じながら生きることができる。命の仕組みを感じない生き方は、体や心に良くない。

破滅的な生き方から創造的な生き方へ。それが、死から生への生き方。

愛は時間の関数

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カーテンを開けた。秋晴れの空が広がっている。前の公園のベンチに、高校生と思われる二人連れが座っている。

ふと、昔のことを思い出した。高校に通っていた頃、気になる女生徒が何人かいた。同じ学校に一緒に居るというだけで、楽しくもあり、苦しくもあった。憧れだったが、誰も振り向いてはくれなかった。

それでも、女生徒の友達はいた。特別に意識はしていなかったので、気楽に他愛のない話ができた。
中学時代、風邪を引いて寝ていたら、枕元のラジオから、エリーゼのためにが流れてきたこと。それは、同じ中学校の二つ年下の子が、音楽会で弾いたものだったこと。それに励まされて、元気になったこと。それ以来、ピアノが好きになったことなど、とりとめのない思い出話をした。

それから、1年ほど経って、学校に新しくグランドピアノが入り、ピアノ開きが行われた。その日、彼女は、生徒を代表して、ピアノを弾いた。エリーゼのためにだった。廊下で会ったとき、何か言おうと思ったら、目を潤ませて、「せちい、せちい」と叫んで、彼女は走り去った。

その声は、今なお、胸に突き刺さったまま。永遠に続きそうな、この快痛。

愛は時間の関数だと思った。